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風林火山と千見城 Edit

築城 Edit

 千見城は天文11年(1542)に村上勢の大日方氏によって、堀の内、飯田(白馬神城)と同時に築城した、と法蔵寺誌と大日方由緒書を根拠に小川村誌が推定している。

 初代城主は大日方直康で弘治元年(年は疑問)の戦いに敗れ歿した長辰は弟(大日方氏系図)で、堀の内城の勘助、飯田城の佐渡守は甥である。

  • 当時、安曇には「仁科」その南に「小笠原」氏があり、北信の「村上氏」と連携しながら攻・守両面での安曇方面への備えだったのだろうか?その後武田・上杉2大勢力の争いの中で大日方氏は生き残りを模索していくことになる。 -- 2007-02-03 (土) 10:13:34

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この間武田氏は信濃攻略を破竹の勢いで進めていた。 Edit

 信濃ではこの頃守護家の小笠原氏が府中と伊那の2流で抗争を繰り返し混乱していたうえに、村上、諏訪、仁科他有力国人層が小大名化しそれぞれ割拠し分立状態であった。そこを衝かれて甲斐を掌握した武田氏の信濃侵攻を許した。
 天文14年、武田氏は諏訪氏を滅ぼす。
 天文18年、塩尻で小笠原氏と武田氏が争った。当時小笠原配下の仁科氏は戦果に下諏訪支配を求めたが入れられずに戦場を離脱したと伝えられている。
 小笠原長時は追われて村上氏を頼った。
 天文19年、村上軍として小笠原長時が武田軍を破った野々宮の戦があり、中塔城に入ったが、小笠原氏の配下は大勢離反した。
 その頃上杉景勝が川中島に進んだので「武田方が深志城に引き上げた」との記述が北安曇郡志にある。


武田の安曇侵攻 Edit

 天文20年、武田方はその小笠原長時を攻めるために、馬場氏と「後に千見城を攻める山縣昌景」を派遣した。「小笠原氏の為に城守者風を望みて多く之に降る(北安曇郡志)」とある。
 天文21年、小笠原氏は敗れて川名島を経て上杉氏を頼ったが「謙信之を遇する甚だ厚し(北安曇郡志)」ともある。(その後武田の歿後に小笠原氏は旧領に復活する)。
 その間、仁科氏は武田氏と徹底抗戦する小笠原氏と別れ武田に服属する。
 仁科配下の氏は半ば独立した存在でありながら時に応じて本家に協力する連合体的武士団だったから本家と別行動を執る者があり、古厩氏(小岩嶽城)は武田氏に抗戦し、攻防は激しかった。500人の死者が出て、小岩嶽城は堕ち古厩氏も消える。
 小谷筋の飯森氏(白馬神城)も仁科宗家とは別に上杉側につき武田氏に抵抗する。森城は武田側に(天文21年、1552年7月)。


弘治元年(1555、天文24年)? Edit

「春昌景積雪の消ゆるを待ち兵を率ゐて東に出で大日向長辰を千見城に攻めて之を殺し転じて四ヶ庄に入り長辰の族大日向勘助を城(堀の誤植?)の内城に大日向佐渡を飯田城に飯森春盛を飯森城に攻む勘助佐渡夜に乗じて出奔し獨り春盛城守す昌景攻むる事一夜遂に之を抜く・・・」(北安曇郡志、大正12年3月31日発行)

  • 昌景は「山縣昌景」(武田の武将)のこと、千見城攻めの前に安曇地方を攻略してきた。 -- 2007-02-02 (金) 09:37:16
  • 明治9年の村誌はこちらだが、壮絶な戦闘の様子がしのばれる。
  • 肝心のこの戦いの年号は違うかもしれない。
    大日方直政、直長(後千見城主)が千見城を攻め、武田から太刀と感状を得ている。(大日方文書、天文24(『むしくら』では23年、1554)年3月21日)弘治元年(1555)に始めて千見城が武田に堕ちたのであればこの文書はありえない。
    青具あてがい.jpg
     北安曇郡志に「天文21年に・・山縣正景安曇郡を定め・・」とあるが、小岩嶽城や森城が落ちた頃、時を経ずしての戦(天文21年、1552年)だったと思われる。
  • 天保6年になって千見の村人が、大日向長辰の菩提を弔う墓標を千見城本丸跡に建て、現存する。

その後の千見城 Edit

 千見城を攻め落とされた大日方氏は武田服属をめぐってゆれた。
 大日方家の嫡男金吾は武田服属に反対したが殺され大日方氏の武田服属が決まった。

  • 金吾のたたりがいろいろあったので、古山城に金吾大善神を建て、明松寺を開創して甲冑に墨衣の木像を安置した。

 天文21年(1552)8月11日、武田信玄は大日方氏に大子(青具)と桐山の所領をあてがって大日方氏の武田への奉公と忠節を求めている。
 千見城が堕ちて武田服属を即決した大日方氏を評価したものではないか。

  • 青具(大子)が文献に始めて登場したのがこの「あてがい状」だといわれているが -- 2007-02-10 (土) 08:58:02

 かくして今度は武田の対村上、その背後の対上杉の最前線基地としての役割を千見城は担うことになった。

 武田側になった千見城が森城と共に上杉側に奪回されたことがある。古文書等の記録はないが、上杉の上洛(天文22年、1553)の翌23年(1544)のこと。
 すでに武田側になっていた大日方氏の活躍でまた取り返した事件があり、前述の感状と太刀が武田から大日方に贈られている。破格の取り扱いのようだ(前述)。


川中島の戦い Edit

 天文22年(1553)(第1回)
 天文23年(1554)6月仁科盛政武田氏に従ひ川中島に出陣8月18日甲越の軍に参加す(北安曇郡志)
 弘治元年5月仁科盛政武田氏に従ひ川中島に出陣7月19日犀川合戦に参加す(北安曇郡志)
 弘治元年(天文24年、1555)7月上杉謙信は村上義清らの要請で川中島に出陣、武田信玄と100日以上対陣したが今川義元の仲裁で和睦(第2回)
 弘治3年(1556)残雪で越後軍の動きが鈍い隙に武田軍は葛山城を落としたが、その後謙信側の反撃も急だった。(第3回)
 永禄4年(1561)9月10日、川中島激戦(第4回)

「風林火山」の時代、千見城は戦略上の要点だった。

千見城と武田軍略 Edit

 武田信玄にとって、当初上杉は北信濃の村上との連合軍だったが、上杉を倒さなければ村上も信濃征略も出来ない実情になり、上杉謙信にとっても武田を阻止しなければ自国越後への波及を抑えられないから、川中島や奥信濃はその防衛線になった。戦域を拡大しても犠牲を払っても武田阻止の戦いをしなくてはならない。
 こうした武田・上杉2勢力の争点が10年を超える川中島の戦いになった。
 天文24年上杉の糸魚川侵攻作戦によって武田は川中島と安曇両面の戦略をたてなければならず、中間点の千見城は(小川城も)重要で、武田側にあって千見城を守った大日方氏への期待は大きかった。(小川村誌から)
 千見城の大日方直長は川中島に出陣している。
 川中島戦の装束大日方.JPG
 小川村記念館の展示では「出陣した装束」だとしてあった。


Last-modified: 2007-02-26 (月) 09:37:11 (6498d)